住職のコラム(令和7年報恩講 ~大悲にいだかれて~  )


本日はようこそ報恩講法要にお参りくださいました。毎年、コロナ禍を経験しながらもこうして浄土真宗のお寺や關にお浄土に参られた皆さまが大切にされてきた法要を今年もご一緒に勤めることをとても有難く思っております。

 

報恩講のは親鸞聖人のご遺徳を偲び、私が教えに出遇えた喜びを感謝し勤まる法要です。 この私に南無阿弥陀仏のお念仏が時代や場所を越え今、この口に南無阿弥陀仏とお念仏申す身に育てられていることに思いを馳せることでもありましょう。いつも思うのですが1人1人が手を合わせお念仏申す姿に、阿弥陀さまの大悲のはたらきを感ぜられずにはいられないのです。

親鸞聖人が尊敬された善導大師の「往生礼讃」というお書物に仏さまと出遇うことの難しさが書かれた一節があります。それは

 

①値仏の難

 仏さまが出現する世界に生まれることの難しさ

②獲信の難

 信心の智慧を得ることの難しさ

③聞法の難

 尊き法を聞くことの難しさ

④教化の難

 人々を教え信ぜしめていくことの難しさ

 

この原稿を書いていてもこの4つの「難」が自分のことであったと実感することです。私自身の半生を振り返っても類い希な縁でこうしてお念仏申しております。お寺に生を受けながらも、仏さまに背を向けながらそして反発しながら生きてきた私がこうして1ヶ寺の住職をお預かりしていることはまさに「難」の世界に生きながらも決してあきらめずに。大悲のはたらきに抱かれていた証でもあります。

 

それは決して私だけではなく阿弥陀さまの大悲のはたらきの中にいる私たちです。私が常々拝見している皆さまが法要にお参りして合掌・お念仏する姿が、阿弥陀さまの大悲そのものの持つ「弘まる」はたらきということです。お念仏をよろこぶ、お浄土へ向かう今をよろこぶ方々を通じて、私たちに阿弥陀さまの大悲が届いているのです。その阿弥陀さまの大悲を私達に伝えてくださった今日は親鸞聖人のご命日の法要です。                                                   合掌